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【解説】




主題が変化型、副題が比較型の問題である。指定語句には具体的な人名・事件名

が無く、取っつきづらい印象を受ける。主題が変化型であるから、変化前と変化後を比

較することになるが、そのうえで更に地域ごとの比較をすることが求められているため

問題要求を完全に満たした答案を時間内に作成するのはかなり難しいだろう。受験生と

しては主題の社会変化がしっかり書けていれば合格点と考えて良い。


 社会変化としてまず思いつくのが、中国(問題では別の表現が用いられているが

ここでは便宜上、中国とする)の戦国時代における社会変化である。以下、「論述問題

の核 古代編 問39」の解答



 牛耕や鉄製農具の普及、治水灌漑・開拓の進展により、氏族統制下の共同体的農

 業から小農経営に転換した。大土地所有者も出現し没落農は宗教結社の母体とな

 った。農業生産が増加し、余剰の売買で青銅貨幣が流通。人口増で漢字文化圏が

 拡大した。領域国家は慣習法を成文法化し、郡県制で地方に非世襲官僚を派遣し

 た。富国策を背景に製塩・製鉄業が栄え、武器を自弁した平民は歩兵常備軍化し

 、二輪戦車に代わる軍隊の主力となった。下剋上・能力主義の風潮下、氏族原理

 に代わる新たな思想が模索され、儒家・法家など諸子百家が活躍した。


 ※鉄製農具以前の道具は石器や木器。小農経営の基本は男耕女織の性別分業であ

 った。諸子百家の思想活動は秦漢帝国の統一の基礎となった。その前提に開発に

 伴う中国文化圏の拡大があり、ここに中華意識に基づく華夷思想の萌芽が生まれ

 る。ただし、これらの変化が本格化するのは戦国時代に入ってからであり、春秋

 時代は未だ邑を拠点とした点と線の支配に止まっていた。



 ここではこの解答をベースに、ローマにおいて比較できる項目を個別に考えると

いう方針で解答を作成してみる。


 まず、「牛耕や鉄製農具の普及・治水灌漑・開拓の進展」について。言い換えれ

ば「農業の技術革新」であるから、ローマにおいて「農業」という枠組みの中で起こっ

た変化を考えれば良い。ローマで起こった農業上の変化としてまず頭に浮かぶのが「

ティフンディアでの商品作物栽培」「属州からの安価な穀物の流入」などであろう。こ

れらを並べただけでは比較にはならないが、ローマでは「大土地所有が進展して小農が

没落した」のに対して、中国では「小農経営が進展して大土地所有者が生まれた」とい

う結果に着目すれば、ここに対比が成立していることに気づくはずである。さらに、没

洛した農民がどうなったかを考えれば、ローマでは遊民化してローマ市に入り、パンと

サーカスの提供を受けるだけの存在となり、やがて職業軍人制の下で有力者の私兵=常

備軍として内乱に巻き込まれていったが、中国では民間信仰などの宗教を媒介とした相

互扶助的な集団を作り、後に道教などが教団を形成する際の母体となった、という点に

ついても比較が可能であると分かる。ちなみに、政治家がパンとサーカスを提供した理

由については解答でも少し触れたが、無産市民も市民権を保持し、民会における投票に

参加することができたので、彼らの支持を得ることが不可欠だったからである。有力者

が庇護者となって公共建築や娯楽の提供を進めるという伝統がローマ社会に定着し、独

裁的な権力を握ったカエサルやオクタウィアヌスについてもこの点を怠らなかった。ま

た政治家だけに限らず、商業で富を蓄積した上層市民(騎士)もその富を都市の美化と

いう形で市民に還元した。とりわけ経済的に繁栄した属州においてローマの土木建築技

術を応用した都市建設が進み、それに伴ってギリシア・ローマの融合した都市的な文化

が広まっていった。ただし、「論述問題の核 古代編 問26」でも触れたように、こ

のいわゆるローマ化と呼ばれる現象は、ローマが未開地域を文明化したという意味では

無く、既存の文化を継承・発展させていったことを表しているのだという点には注意が

必要である。


 次に、「余剰の売買で青銅貨幣が流通」について。つまりは「民間経済が発展し

た」ということである。その後の「富国策を背景に製塩・製鉄業が栄え」もこれに該当

する。この結果、官営工業だけでなく、多くの民営の手工業者が現れた。ローマにこれ

に対応する現象はあるか?それが先述した属州の経済的繁栄である。とりわけ、属州で

徴税などの国家事業を担った騎士が商人・資本家として活躍した。同様に富を得た元老

院議員は商業行為を法的に禁じられていたため、騎士が高利貸しを営んだり、得た富を

イタリアの土地に投資して大土地経営を行った。「騎士」とは前3世紀頃に上層市民に

与えられた身分であるから、一般の民衆とは区別して考えることができる。従って、こ

の点で中国との対比が成立する。ちなみに中国の手工業が主に塩・鉄など実用品が中心

であったのに対して、ローマの属州で生産された手工業品が、シリアのガラス製品、ガ

リアの陶器など美術工芸品中心であったという点に着目して解答に盛り込んでも良い。


 「人口増で漢字文化圏が拡大」について。春秋時代から文字の普及が進展するが

戦国時代に諸侯が開拓事業を進めた結果、この動きが加速する。こうした識字率の向上

がその後の諸子百家の出現と新思想の普及を準備したという点に触れても良いが、この

段階では文化圏内に漢字の統一的な書体は存在せず、後に秦の始皇帝が初めて小篆に統

一した。同様に、始皇帝は地域ごとに異なる貨幣が通用する状態を改め、半両銭に統一

することで中央集権化を進めた。車軌・度量衡などの規格も統一したがこうしたいわば

空間の支配」はフランス革命中の国民公会によるメートル法制定などにも現れている

。さて、ローマにおける文化圏の拡大については先述した通りである。最も、ローマ化

が大きく進展するのは五賢帝時代の領土拡張期なので、設問の対象年代からは若干外れ

ているかもしれない。それはともかく、中国の方で「漢字」に触れたのだから、ローマ

では「ラテン語」あるいは「ローマ字」に言及して比較の明示を心がけたい。


 「領域国家は慣習法を成文法化し、郡県制で地方に非世襲官僚を派遣した」につ

いて。それまでの氏族を基盤とする邑は、比較的自立性の高い都市国家であった。氏族

世襲的な社会道徳、即ち慣習法である宗法を基盤に封建制度の下で結束を保っていた

。ところが、諸侯分立の戦国時代に入ると、こうした氏族原理は廃れ、新たに実力主義

、下剋上の風潮が生み出された。その中で諸侯は慣習法を成文法化して統治に利用する

と共に、それまで一族が世襲で行っていた地方統治も、郡県制の下で中央から派遣する

非世襲官僚を通じて行う方式に改めていった。結果的に諸侯による地方支配は強化され

、後に秦漢帝国の基盤となる官僚制度の萌芽が生まれることになった。上の解答の最後

に示したように諸子百家の活躍が秦漢帝国の統一の基礎を作ったが、儒教・道教などの

新たな宗教的展開が生じたことにも注意しておきたい。さて、問題はローマとの比較で

ある。指定語句の「同盟市戦争」をどう使うかが本問を解くうえでのカギであると管理

人は考える。恐らく多くの受験生はこの用語を単純に「内乱の1世紀」の具体例として

使ってしまったのではないだろうか?しかしよく考えてみて欲しい。それで果たして本

当に主題である「社会変化」に答えたことになるのか?主題に沿ってこの用語を使うの

であれば、この戦争がローマ史の中で果たした歴史的意義に留意する必要がある。即ち

戦後のイタリア全土へのローマ市民権の拡大と、それによる共和制ローマの都市国家的

性格の消失である。その結果、ローマは多民族を強大な軍事力で支配する「世界帝国」

へと変質していくことになる。ちなみにアッシリアなどもこの「世界帝国」に該当する

。以上より、「都市国家の崩壊」という点において、中国とローマが共通していること

が分かる。さらに、中国における慣習法から成文法への変化に対応するものが何か無い

かと考えると、ひとつ該当するものがある。それが、「論述問題の核 古代編 

問23」で触れた、ローマ法の性格の変化である。同盟市戦争後の市民権拡大やカエサ

ルによる属州人への市民権付与によって、ローマ市民による私法の体系に過ぎなかった

ローマ法は、各地の慣習法やコスモポリタニズムの影響を受けた万民法に変質していっ

た。この慣習法との融合は、中国の慣習法から成文法への変化と対照的である。また、

「論述問題の核 古代編 問24」で触れたように、市民権付与にはローマの

伝統的な多神教を強制するという側面があるから、この点も、新たな思想・宗教が誕生

した中国の場合と対照的である。結局ここでもしっかり対比を意識して解答を作成する

ことが肝要である。


 これまで書いてきたことで大体答案は完成したと言っても良い。ただ、重要な点

がひとつ抜けている。それが指定語句の「第一人者」である。論述対象年代は「古代帝

国」の成立までであり、ここでの「帝国」は単純に「皇帝が統治する国家」という意味

であろうから、少なくともローマについては元首政の成立までは書かなくてはならない

。しかし皇帝を表す「第一人者」が指定されている以上は、皇帝について何らかの定義

づけをしなければならない。つまり、答案は「中国皇帝とローマ皇帝の比較」が明確に

なるような形でシメるのがベストである。方向性は二つある。ひとつは中国皇帝に制約

機関は無く独裁的な権力を振るったが、ローマ皇帝(オクタウィアヌス限定)は共和制

の伝統を尊重する立場から民会にも選挙や立法を行わせ、元老院にも諮問を行ったので

完全な独裁には至らなかった。と対比的にまとめる方向。もうひとつは「論述問題の核

古代編 問1」で触れたように、両者とも宗教を背景に普遍的権威となった。と共

通点からまとめる方向である。どちらも内容的に誤りは無いが、管理人個人の意見とし

ては、後者の方向を勧める。なぜなら作問者は両帝国を「古代帝国」という共通の枠組

みで捉えているからである。その意図に沿うなら、世界史の大きな流れの中における東

西の皇帝の誕生という現象をあえて対比的に捉える必要は無いのではなかろうか。もち

ろん前者でまとめても何ら問題は無い。先述したようにローマ皇帝は市民の人気取りに

も余念が無く、その点は強権支配に徹した始皇帝などとは著しく対照的である。ちなみ

に先ほど中国における官僚制の発展について触れたが、ローマでは元首政の段階ではそ

れほど官僚制は整備されておらず、本格的な官僚制の始動は専制君主制の成立を待たな

ければならない。



※本問について、現在ネット上で公開されている各社予備校の解答例を講評してみた。

 あわせて参考にしてもらえると良い。↓


東京大学2017 解答速報の比較



〈補足〉



内容についていくつか補足をしておく。

まず、ローマの世界帝国化についてである。これは多様な「民族」にローマ市民権

を解放し、「ローマ人」としての統一を確保することで進行するものであると説明

した。しかし厳密に言えばそれはローマ帝国の実質とは異なる。そもそもローマ人

の間には敵対する人々を「蛮族」と見なす意識があるのみで、固有の「民族」という

区分は存在しなかった。(「ゲルマン人」という区分も同時代的には存在しえない

概念である)従って、ローマ帝国の境界は曖昧であり、それゆえ、帝国を実質化して

いるのは辺境に住む兵士を中心とする市民の「ローマ人である」という自己認識

であった。その自己認識はラテン語を話し、ローマ人の衣装(トガやトゥニカ)

を身につけ、ローマの神々(多神教)を崇拝し、イタリア風の生活様式を実践する

ことで担保されるものであった。すなわち、自発的な「ローマ化」の有無が帝国の

領域を規定する基準となったと言える。その過程で各地の土着神(自然神)はローマ

の神々と同一視され、一種の国家宗教として統合されていったのである。しかし、

こうした「ローマ化」の影響は緩やかで、都市や要塞周辺に限定されていた。解説

で触れたようにこれはイタリア風のローマ文化と先住者文化の融合という性格を持つ

だけでなく、支配権力ローマに対する「抵抗」も含み込んでいたということが学界

で指摘されている。ローマ人にとってこうした生活様式を実践するためには

都市に暮らすことが不可欠であった。従って、都市に集住した「ローマ人」は参事会

を中心に自治を行うようになり、これが当初は数の少なかった官僚に代わる帝国の

統治基盤となったのである。

しかし、こうした、「誰でもローマ市民になれ、ローマ帝国はどこまででも広がる」

という思潮は、アドリアノープルの戦いにおけるローマ軍の敗北と皇帝の戦死により

変質し、外部世界の居住者や帝国内部への移住者を、部族を超えた「ゲルマン人」

即ち民族としてまとめて捉える「排他的ローマ主義」が生まれたのである。ここに

「ローマ人である」という従来帝国を実質化していた寛容な思潮の衰退が決定的と

なった。侵入してきた「ゲルマン人」は都市を好まずその外部に居住したため、

「ローマ人」としての生活様式を実践する場としての都市の機能も失われていった。


次に、ローマにおける官僚制の発展についてである。先述したように、当初は帝国

の統治を補完するために、属州統治は都市の自治に委任されていた。属州では大土地

所有者や、中央の元老院貴族と区別された「元老院格」のセナトール貴族ら帝国公職

保有者が強い在地権力を誇っていた。元老院身分出身のローマ皇帝が同じ元老院貴族

を用いて帝国を統治する元首政は、このような背景のもとで成立した政体であると

言える。ところが、2世紀後半以降、新しい家系出身の議員が公職に占める比率が

上昇し、「3世紀の危機」における軍人皇帝時代に皇帝の出自においても世襲原則

は崩れていった。元老院貴族にかわって属州総督や軍団司令官の地位を得たのが騎士

身分であり、専門性の高さや経歴の連続性を活かして皇帝直属の部下として台頭した

。これを制度的に確立したのがディオクレティアヌス帝であり、ここに「専制君主制

」が成立する。しかし、「専制君主制」が意味するところはあくまで「皇帝直属の

部下が支配権を握る体制」であり、必ずしも「皇帝独裁」では無い。官僚・宦官ら

皇帝近臣に一部の元老院貴族を加えた皇帝顧問会議が実権を握った。コンスタンティ

ヌス帝はガリアを核とする帝国西半では先述したような在地権力者に迎合して元老院

貴族中心の支配体制に回帰する姿勢を見せたため、実質を失った騎士身分は4世紀

までに事実上消滅したが、東半では、ディオクレティアヌス帝の事績の残滓もあり

直属の官僚を用い、旧来の支配層には基づかない強い皇帝政治が維持された。ここ

に、帝国末期における東西分裂の萌芽を見て取ることができる。ちなみに、皇帝乱立

や外部からの侵入という危機に対処するべく、属州統治の方式自体も徐々に変化して

いった。具体的には、ディオクレティアヌス帝は属州を細分化し、コンスタンティヌ

ス帝は属州総督を全て文官にし、軍隊指揮権を全て軍司令官に与えることで、属州

統治における民政と軍政を分離した。


















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