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【東大世界史2017 解答速報の比較】このページでは、各社予備校の東大世界史2017の解答速報として出された 解答を比較し、その内容を検討していくことにする。ここに書いたことはあくまで管 理人個人の意見であり、その可否の判断については皆さんにお任せする。ちなみに管 理人による本問の解答・解説はこちらに掲載してある。 【駿台】ポエニ戦争以降、ローマでは属州からの穀物流入で重装歩兵市民団の基盤であ る中小自作農が没落する一方、徴税請負で騎士階級が台頭し、貴族と共に大農 場を経営した。市民団の再建を図ったグラックス改革の挫折後、元老院を掌握 する閥族派と平民派の対立が激化した。傭兵を私兵化した有力者同士の内乱の 過程で共和政は形骸化し、平民派のカエサルの独裁を経てオクタウィアヌスは 市民の第一人者として共和政の伝統を尊重し、元老院と共同統治を図った。こ の間、同盟市戦争でイタリア半島の全自由民に市民権を拡大し、これ以後ロー マは都市国家連合体から多民族を内包する地中海帝国へと発展、ラテン語はヨ ーロッパ諸語に影響を与えた。黄河・長江流域では春秋時代以後、鉄製農具と 牛耕の普及で農業生産力が向上し、家族単位の小農経営が成立した。宗法を規 範とする氏族共同体が弛緩した結果、城郭都市である邑の解体と旧支配層の没 落が進み、周以来の封建制は動揺した。余剰生産物の交易により商工業が発展 して大都市が各地に成立、塩・鉄を交易する大商人も現れ、流通の円滑化を図 って青銅貨幣が鋳造された。諸子百家の活躍など実力主義の風潮が高まる中、 有力諸侯が富国強兵策を実施、領域国家が成立した。法家を採用した秦は他の 六国を征服。秦王政は王号に代えて皇帝を称し自らを神格化、官僚制と郡県制 を整備して集権化を進めた。文字の統一は後の漢字文化圏形成の契機となった。 【講評】管理人個人の意見としては、今年の解答速報を評価順に並べるなら、駿台、代 ゼミ、河合、東進のようになると考える。特に駿台は他の予備校と比べるとかなり質 が高い。最も、そのぶん速報の発表は他の予備校より圧倒的に遅かったが。それはと もかく、内容についてである。まず序文。ローマで中小自作農が没落し、中国(便宜 上この表現を用いる)で小農経営が成立したという比較は書けている。しかし、でき ればもう一歩踏み込んで、中国では大土地所有者が生まれたことも書いて欲しかった 。また、ローマで重装歩兵市民団の基盤が揺らいだことや、有力者が私兵を組織した ことを書いたなら、中国では武器を自弁した民衆が歩兵常備軍となり、二輪戦車にか わる軍隊の主力となったことも書くべきである。その背景には民間の製鉄業が栄えて 武器が低廉化したことがある。また、中国で商工業が発展したことを書いているのは 良いが、それと比較しうる項目がローマの方には見当たらない。せっかく「騎士」に 言及したのだから、彼らが商人・資本家として活躍したことや、属州で工芸品を中心 とした手工業が発展したことを書いて欲しかった。管理人はローマを上層市民中心の 経済発展、中国を民間経済の発展という対比で捉えたが、中国でも大商人が諸侯に並 ぶ影響力を持ったことから、「富裕者が商業活動を通じて政治的発言力を拡大した」 という共通点から捉えても良いかもしれない。本題に戻る。解答ではローマの方で「 グラックスの改革」や「閥族派と平民派の対立」などに触れているが、管理人個人の 意見としてはこれは不要である。第一、これは「政治変化」であって、「社会変化」 であるとは言い難い。土地改革という枠組みで見れば前者を郡県制と対比できないこ ともないが、さすがにアバウトすぎるだろう。後者も「内乱」の一言で済ませてしま っても何ら問題は無い。ローマの「内乱の1世紀」の「社会」と、中国の「春秋・戦 国時代」の「社会」が比較されているのであり、その内部における個別的な政争に触 れる必要は無い。「カエサルの独裁」につても同様である。もちろん、「カエサル独 裁が帝政の原型となった」ことと、中国で「領域国家の郡県制による直接統治の方式 が秦漢帝国に継承された」という比較で使うなら問題は無い。この解答で最も優れて いる点は、そのあとで、同盟市戦争後の市民権拡大と都市国家から世界帝国への変貌 に触れている点である。さらに中国の方でも城郭都市・邑から領域国家への変貌に触 れているので、比較が成立していることになる。また、ラテン語・漢字という言語の 対比に配慮している点も高く評価できる。ただし、ラテン語が各国語に派生するのは 中世以降であり、ここでは「影響」は問われていないので最後の文章は不要である。 また、「漢字」を中央集権支配の象徴としてのみ用いているが、むしろ戦国時代の開 発を通じて漢字文化圏が拡大したことの方が重要である。その前提の上に立つからこ そ、「書体の統一」という始皇帝の事業が意味を持つのである。ただ、漢王朝成立以 前の文字文化の拡大を「漢字文化の拡大」と表すことにはやや抵抗がある。問題であ えて「中国」という表現を使っていないことも考えると、もう少しマイルドな表現を 使うべきかもしれない。解答では文字の統一を漢字文化形成の「契機」としているが その「契機」にあたるのはむしろ先述した春秋・戦国時代の社会変化であるから、「 春秋・戦国時代の文字文化の拡大が、秦朝による書体の統一を経て漢字文化圏の形成 に繋がった」とでもしておくのが良いだろう。とはいえ出題者が受験生にそこまで求 めているとは思えない。 【代ゼミ】共和政ローマは外征を繰り返して属州を獲得し,地中海世界を統一していった 。しかし,その過程で遠征による疲弊や属州からの安価な穀物流入で中小農民 が没落し,無産市民として都市に流入した。有力者は無産市民を集めて私兵化 して抗争し,ローマは「内乱の1世紀」と呼ばれる混乱期に突入した。混乱収 拾の過程で特定の個人に権力が集中する現象が生じ,オクタウィアヌスが帝政 を始める道筋が開かれた。共和政から帝政に移行した経緯から皇帝は市民の第 一人者を名乗り,元老院と協調しつつも要職を兼任して独裁する元首政をとっ た。また,内乱中の同盟市戦争や属州有力者への付与により市民権が拡大し, ラテン語とローマ法を基盤としてローマ市民が属州を支配するという形でロー マ帝国が確立した。一方,黄河・ 長江流域では,春秋末期から鉄製農具や牛耕 の普及により農業生産力が向上したことを契機として,宗法に基づく氏族社会 の解体が起こり,自立した中小農民が現れた。諸国も邑の連合体から人民を直 接支配する領域国家へと変貌し,君主への中央集権化も生じた。戦国時代に入 ると諸侯の争いが激化し,その過程で中国文化圏の枠組みも生まれた。やがて 法家を採用した秦が諸国を統一し,君主は王侯を上回る立場を示すために皇帝を 名乗った。郡県制を全国に拡大 し,度量衡や漢字の統一も行われ,皇帝が法と 官僚制に基づいて全土を中央集権的に統治する中国王朝としての帝国が確立した。 【講評】基本路線は駿台とあまり変わらない。農業上の変化や都市国家的性格の後退な どについては良く書けている。ラテン語だけでなくローマ法(恐らく後で中国王朝の 法による支配に触れているので、法家思想との対比を図ったものと思われる)にも触 れている点や、(全予備校の中で代ゼミだけ!)中国の皇帝政治の定義づけにしっか り字数を割いたうえで、「市民が属州を支配する帝国ローマ(形骸化したとはいえ共 和政の伝統を受け継いでいるという点を表現しているのだろう)」と「中央集権的な 中国王朝としてのローマ」を対比している点も評価できる。しかし、肝心の主題であ 「社会変化」を表すうえで不可欠な要素がいくつか抜け落ちているのである。例えば ローマで無産市民の増加を書いた後いきなり私兵に言及しているが、「重装歩兵市民 団の形骸化」という重要な論点を落としているのはいただけない。さらに、中国では 政治的な変化には十分な記述があるものの、「青銅貨幣の流通」「民間の工業の発達 」などといった基本的な要素を欠いてしまっている。これでは駿台と比べていささか 不十分な答案であると言わざるを得ない。原因としては冒頭の「地中海世界の統一」 のような主題から外れた事項に字数を割いてしまったことなどが挙げられるだろう。 管理人個人としては、このぐらいの答案が合格者の平均的な答案なのではないかと推 測する。その意味では、受験生にとって親しみやすい解答であると言えるかもしれな い。ところで、この解答には駿台より優れている点がもうひとつある。それは、春秋 ・戦国時代に「中国文化圏」の枠組みが生まれたことに言及している点である。先述 したように言葉の使い方に関しては議論の及ぶところであるが、あくまで入試問題、 と割り切って思い切った表現を使おうとする姿勢は評価できる。この点においても、 受験生にとってひとつの模範となり得る解答であると言えるだろう。 【河合】重装歩兵を担う市民団を基盤とする都市国家ローマは、ポエニ戦争に勝利し属 州を広げたが、市民団を支える中小農民が長期の従軍と 属州の安価な穀物流入 によって没落した。一方、同盟市戦争でロー マ市民権がイタリア半島の全自由 民に認められ、ローマ市民団は拡大し公用語のラテン語も広がった。没落した 無産市民を私兵化して 台頭した実力者の内乱は激化し、有力軍人による三頭政 治・カエサ ルの独裁を経て、オクタウィアヌスが勝利し地中海地域を統一した。 その後、市民の第一人者を意味するプリンケプスを称して市民共同体の理念を 尊重しつつ、元老院からアウグストゥスの称号を受け 、軍事・政治の最高指導 者となった。春秋時代から戦国時代にかけて、宗法を基盤とする血縁的な邑の 連合体が存在していたが、鉄製農具や牛耕の普及などで農業生産力が向上する と、家族単位の農業 が可能となり、氏族共同体の結束は失われて封建制は崩れ ていった 。諸侯は新県を設け開発を進めて小農民を統率し、商業を振興し有能 な人材を実力本位で登用するなど富国強兵策を推進し、地域的な領域国家が形 成された。周王の権威は失われ各国君主が王を称していたが、諸子百家のうち 法家思想を採用した秦が中国を統一すると 、光り輝く天の支配者を意味する皇 帝を称し諸王の上に君臨した。郡県制による支配が各地に拡大し、篆書に統一 された漢字は、長江流域を含む各地での集権的な官僚統治に役立てられた。 【講評】一見、良答に見えるが、内容的には特に光るところの無い平凡な解答である。 まず、最大の問題点は、ローマ市民権の拡大に触れているのに都市国家から世界帝国 への変貌に言及していない点である。「古代帝国」成立の経緯の中で最も重要とも言 える論点を欠いてしまった点は大きなマイナス要素である。さらに、「市民権の拡大 」を「市民団の拡大」と同一視している点も問題である。冒頭で「市民団の形骸化」 に言及しているのに、なぜ「市民団が拡大した」などという矛盾した表現を使うのか ?ここでいう市民権は民会への投票権とほぼ同義であり、経済的に没落した市民は武 器を自弁でき無くなったため重装歩兵としての役割を失ったが、この投票権を保持し ていたが故に有力者は彼らにパンとサーカスを与えるなどして支持を取り付けようと したのである。即ち、それまで共和政ローマの軍事動員基盤となっていた市民権が、 有力者による権力闘争の道具に変質していったのである。それを名目上たて直したの が内乱を終わらせた皇帝であるが、結局、五賢帝時代の領土拡張によって都市国家的 なローマの性格は完全に失われることになった。いずれにせよこの解答の表現には問 題がある。代ゼミ同様、政治史の経過について不要な事柄に字数を割いてしまってい るので、そこを削って別の要素を入れ込めばもう少し良い答案になったのではないか。 ちなみに元首の権限を政治と軍事に限定しているが、国家宗教の最高神官となったこ とも重要であり、この点は山川の『新世界史』にも記述がある。国家宗教とは、ロー マの伝統的な多神教、即ち自然神崇拝である。 【東進】(解答例1) 春秋戦国時代、周王を頂点に宗法によって結ばれた諸侯が集団農耕を中心とす る大小の都市国家である邑を支配したというそれまでの社会構造が変化した。 周から自立して王を自称した諸侯が各々の領域国家を従えて互いに相争う中、 それまでの集団農耕から家族単位の農耕が広まり、農民は富国強兵を支える存 在として戸籍・徴税を通じて直接把握された。その後、戦国時代の動乱を勝ち 抜き秦、続いて漢が統一王朝となった。王を超える存在である皇帝が、儒教の 理念に基づき、漢字文化によって一定のまとまりを持ち家族経営の小農民を基 盤とする社会を、官僚組織を用いて統一的に支配するという古代中華帝国の基 本型がこの両時代を通じて完成した。共和政の都市国家として発展したローマ は、前2世紀以後、ポエニ戦争等を通じた領域拡大・同盟市戦争を通じた市民 権の拡大を背景に、地中海一帯を支配する領域国家としての性質を帯び始めた 。しかし同時にこの時期、共和政の矛盾と限界が露呈し始める。重装歩兵とし てローマの拡大を支えた自作農は属州からの安価な穀物の流入によって没落し 、貴族の私兵として権力闘争の道具となった。内乱の結果、共和政の形式を尊 重し市民の第一人者と称された元首が統一的に支配する元首政が帝国統治に適 した形式として確立した。しかし官僚制は発達せず、各地の都市が帝国統治の 基盤としての役割を担い、ローマ帝国は都市国家としての性格も保持した。 【講評】カッコをつけようとして失敗したパターンである。恰も歴史の構造を総体的に 捉えた風な長々とした文章を各所に散りばめることで、東大教授の目を引く高尚な解 答が書けたつもりになっているのだろう。しかし、解答の作成者は残念だが広い視野 から「社会変化」を捉えているとは言い難い。「ローマも中国も都市国家から領域国 に変化したが、ローマは都市国家的な性格が残存した」という論点を強調するあまり 、実際の社会変化については農業上の変化だけにしか言及できていない。解答作成者 が言うところの「社会構造」には「上部構造」と「下部構造」があり、この解答では ほぼ全ての論点を前者に結びつけて書いてしまっているため、他の予備校で少なから ず触れられている下部構造にあたる諸要素を大きく欠いている。それらを盛り込むた めには解答の冗長な表現を削っていくしかない。例えば、冒頭の「それまでの社会構 造が変化した」は問題文で前提とされているのであえて書く必要は無い。ローマの方 では「しかしこの時期〜露呈し始める」の箇所は丸ごとカットして良い。歴史家なら ともかく、単なる入試問題で「矛盾と限界の露呈」などという主観的な評価とも取ら れかねない表現をあえて使う必要は全く無い。字数の無駄である。また、減点はされ ないだろが、わざわざ問題で提示された順番に逆らって中国から書き始めるのも奇を 衒っているようで印象が悪い。内容については、「官僚制の発達した中華帝国」と「 官僚制が発達せず都市国家的性格が残存したローマ帝国」という対比が成立するのか については議論を要する。「論述問題の核 古代編 問22」で触れたよう に、経済的繁栄を背景にローマ風の都市建設が進んだ属州では、その都市が小規模な 自治組織として行政を担当したことは事実である。確かに、非世襲の地方官を派遣し て官僚制的統治を行った中国と比べれば、官僚制が未成熟なローマで世襲の元老院貴 族が都市を拠点に地方統治を担ったことは対照的である。しかし、それを「都市国家 的性格の残存」と言うには無理がある。属州を個別に見れば、帝政末期に帝国からの 自立傾向を強めることから、都市国家的な性格を強めたと言うことはできるだろう。 しかし、ローマ帝国全体で見れば皇帝が属州からの富を元老院と二分して私財化し、 また属州の治安維持のために全権を掌握したことから、あくまでその性格は多民族を 軍事力で支配する「帝国」である。もし、上のような論点を盛り込みたいのであれば 、「中国は非世襲の地方官を派遣して農村を直接支配したが、ローマは属州統治を担 う世襲の元老院貴族や騎士が都市行政を担ったため、帝国政府は彼らを介して間接的 に農村を支配した」とでもしておくのが良いだろう。しかし、この点は他の予備校に は無い視点であり、評価の対象となるかもしれない。(「都市国家的性格の残存」と いう論点を扱っている高校教科書は今のところ無いので、解答作成者個人の見解とも 言えるこの要素を解答に盛り込むか否かは各人の判断に任せる) ※解答例2はここでは扱わない。解答例1よりクセは無いが、十分な要素が盛り込ま れているわけでもなく、管理人個人の意見としては河合の解答より評価は落ち る。気になる人は公式ホームページで確認しておくと良い。 【総評】主題である「社会変化」に十分に答えられているのは駿台ぐらいである。副題の比較についても全体に渡って意識できている答案は無い。(東進は比較に重きをおいて いるように思えるが、肝心の主題に関する言及が少ない)ローマ法や政治家による公 共建築など、具体的な「社会変化」に触れている答案がほとんど無いのも残念である 。いずれにせよ受験生はこれらの解答をたたき台にして、より洗練された答案を作成 できるよう訓練を積んでいって欲しい。 |