海外でも大人気を誇る【Vikings: War of Clans】(ヴァイキング:クランの戦争)

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【中世編・解答】

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問1   世界の成り立ちや人の生死を理解するための基本的知識と日常生活

    の指針を人々に与えると共に、支配者の統治の正当性を

    保証した。


問2   ムスリム君主はイスラームの教えに詳しいウラマーを優遇し、自らの

    行動の正当性を保証させるのに利用した。


問3   外来民族出身の北魏など北朝君主は、民族や身分による人間の区別を否定する

    仏教を保護することで、中国皇帝として君臨した。


※仏教は普遍宗教であると言える。逆に、儒教は華夷思想と結びついた。漢族の多い

 南朝では、仏教は貴族層の教養として広まった。


問4   共通点。イェルサレムを聖地とする一神教であり、預言者が存在し、

    セム系民族によって創始され、信徒団結を説いた。相違点。

    ユダヤ教が選民思想に立つのに対し、異邦人伝道を行った

    キリスト教と聖職者不在のイスラーム教は神前平等を説いた。

    キリスト教のみ布教のために偶像崇拝を容認した。

    イスラーム法はムスリム全体の規範であるが、他教では

    戒律は主に聖職者が遵守するものであった。


問5   帝政期は身分の固定制が弱く、実力主義であったが、南北朝時代は

    九品中正で門閥貴族が生まれ、名門の家柄が固定化された。


問6   華北では北魏の漢化政策で胡漢が通婚。華中・華南では開発で先住民

    と漢人が同化するなど、隋唐帝国の統一の基礎が作られた。


問7   道徳を強調する儒教より世俗を超越した清談が好まれるなど、規範に

    縛られない精神の自由さを重視した。


※儒教が職業学問化する中、後漢末の時事評論を源流とする清談が流行り、曹操・曹丕

 の『建安文学』など叙情的文学が栄えた。その背景には、秦漢帝国による規制と

 礼的な秩序が崩壊したことがある。


問8   周辺国家は中国の承認を、中国は周辺国家との連帯を国内支配強化に

    利用したので、周辺国家は中国の権威に従属して朝貢し、

    中国は華夷思想の下で周辺国家に官職や称号を授与した。


※朝貢は下賜品供与による中国側の経済負担が大きいが、これによって実際には統治

 していない領域が名目的には中国の支配下にあるという、一種の国際的な封建体制

 を作り上げた。


問9   隋唐の建国者は北朝の軍事集団出身であったため、北方民族と漢人の

    融合した要素を持ち、西アジアの文化も受容して国際的だった。


問10    玄奘や義浄はインドから経典を持ち帰って翻訳事業を行った。仏教の

     浸透に伴い、浄土宗や禅宗など中国独自の宗派が形成された。


※北魏の時代にインド僧達磨が禅宗を伝えたとされるが、盛んになったのは

 唐代になってからであった。


問11    周辺諸国から朝貢使節や留学生、商人が集まり、仏教・道教・?教・

     景教・マニ教の寺院が建てられ、国際色豊かであった。


※「?教」はゾロアスター教の略称「けん教」である。


問12    韓愈・柳宗元の古文復興運動や呉道玄の山水画のように、

     形式化した貴族趣味から、漢以前の個性的で力強い手法への

     回帰が進んだ。


問13    ウイグルは安史の乱への援軍を機に、唐への侵入や絹馬貿易で強勢

     を誇った。吐蕃は敦煌を占領し長安にも侵入したが、唐蕃会

     盟碑で和睦した。雲南の南詔は唐と国境を争い四川地方に侵

     入した。


問14    突厥は独自文化を強調し、突厥文字を作り霊術を信奉した。ウイグル

     は唐に倣って都城制を採用し、仏教やマニ教を信奉した。吐蕃

     はインド系の密教と民間信仰を融合させ、ラマ教の基礎を築い

     た。南詔は唐から冊封を受け、儒学・仏教を学び漢字を公用語

     とした。


※ソグド文字からウイグル文字が生まれ、グプタ文字からチベット文字が生まれた。


問15    西走したトルコ族がオアシス都市を直接支配し、トルキスタンを形成

     する一方、モンゴル高原の権力の空白が契丹族の台頭を促した。


※従来のオアシス都市は遊牧国家が代官を派遣して統治した。契丹族に諸部族が服属した。


問16  ムスリム商人が広州から撤退し、南海貿易が一時的に衰退した。


問17    貴族は荘園を直接経営して自給的な生活を送ったが、形勢戸は土地を集積

     して佃戸に貸し付け、小作料を徴収した。


問18    政治的には、連鎖的な政権交代の中で律令とは異なる支配体制の

     構築が図られ、武臣勢力が台頭した。文化的には、東アジア

     文化圏の統合が緩んで国風文化が形成され自尊意識が高まった。


※契丹が渤海を、大理が南詔を、高麗が新羅を滅ぼし、大越は独立した。日本の神国思想

 や高麗の小中華思想など自尊意識が高まった。


問19    当初はウイグル文化の影響を受けたが、次第に中国文化を吸収し、

     仏教を受け入れた。ウイグル文字と漢字から契丹文字を作った。


※太祖が契丹文字を作成した。


問20    吐蕃やウイグルの衰退に乗じて東西交通の要衝である河西地方に進出

     した。官営交易場(かく場)で宋と国境貿易を行い、慶暦の和約

     締結後、宋から銀・絹・茶を紙幣として送られた。支配層に

     漢人・吐蕃族・回族を含む複合国家であり、漢字を元に

     西夏文字を作成して仏典を翻訳する一方、伝統的風俗を保存

     する禿髪令を発布した。


問21    唐代は中国皇帝が唯一の皇帝として周辺諸国と支配関係を結んでいた

     が、宋代は遼・西夏・金など周辺諸国の支配者も皇帝を自称した。


※3カリフ鼎立に近い状態である。


問22    政治。皇帝独裁、文治主義の下、中書門下省が行政、三司が財政を担い、

     殿試で皇帝が人事権を掌握した。軍事。皇帝直属の禁軍を創設し、

     藩鎮の精兵である牙軍を吸収すると共に、軍隊指揮権を3系統に

     分散させ、枢密院が作戦立案・命令権を握った。地方に置いた

     廂軍は自立化を防ぐため劣弱であり、禁軍が警備を補完した。


問23    長安は都城制の政治都市であるが、開封は大運河と黄河の結節点

     にあり、城塞都市を元に市場や繁華街が広がった商業都市

     である。


問24    唐代は貴族文化であり、美術面では装飾性・華美性を基調とし、

     学問面では知識の蓄積を重視した。宋代は士大夫文化であり、

     美術面では実践的な哲学・道徳を重視した。また、唐代の国際性

     を廃して国粋性が強調された。


※国際性は仏教など外来文化の影響で生まれた。


問25    イル=ハン国はその初期に景教を保護し、マムルーク朝への対抗から

     キリスト教諸国やローマ教皇と使節を交換していた。


※ラッバン=ソーマが訪れた。マムルーク朝とシリアを争った。


問26    経済的繁栄を背景に、富者がパトロンとなってウラマーの研究に

     資金を提供した。


問27  農地開発の進展で帝国の穀倉地帯となった。


問28    当初は法官への任用を除いて国家からの自立性を保っていたが、

     次第に専門職化が進んで地方政権を支える人材となった。


※地方政権は他地域から人材を登用した。


問29    中央にカリフの宮殿である円城が置かれ、庶民はその周辺に街区

     を作って居住した。国際交易の中心として栄えた商業都市

     であった。


※東西物産の集散地としてバザール・銀行・為替などが発達した。


問30    帝国の領域は広大で、単一君主による統治は不可能であり、地理的・

     文化的にまとまった単位が並存している状況であった。


問31    イクター保有権は法的には徴税権だけだが、実際の保有者は恣意的な支配を

     行っていた。他方、世襲規定がなく、軍人が土着権力を

     形成するまでには至らなかったので、王朝は存続する

     ができた。


問32    ブハラなど中央アジアのオアシス都市が繁栄し、ペルシア語文学が

     復活、文化融合が進み、イラン=イスラーム文化が生まれた。


(別解) アレクサンドロス大王の遠征で失われたイランの伝統文化を収集する

    というササン朝の帝国イデオロギーを復興した。


※ペルシア後は言語の面でも自立した。


問33    カラ=ハン朝がサーマーン朝を滅ぼしたことでトルコ系セルジューク族

     が西進し、王朝を建設したが、内紛で衰退し、ホラズム朝・西遼

     の侵攻を受けて崩壊した。その分派であるルーム=セルジューク朝

     が小アジアで台頭するが、モンゴルの侵攻を受けて瓦解し、

     トルコ系の君侯による小国が分立。その中からオスマン朝が

     成立した。


※マンジケルトの戦いでビザンツに勝利した勢力がルーム=セルジューク朝を興した。


問34    スンナ派を復興してイデオロギー的統一を確保すると共に、スルタン制

     の下で支配の正当性を確保するためにはイスラーム法に通じた

     ウラマーの協力が不可欠なため、その育成を図った。


問35    前者は個人的な教育機関であるが、後者はワクフで建設資金や奨学基金

     賄われ、専属教師を持つ組織的な教育機関である。


問36    政治。遊牧国家の伝統を踏襲し、実力者が君主位を継承して一族に

     領土を分封した。遊牧民出身の武官とウラマー出身の文官に

     よる二重統治体制をとった。文化。イル=ハン国で成熟した

     イラン=イスラーム文化を中央アジアに伝え、写本絵画など

     宮廷文化が栄えた。


問37    ウズベク人。南下してティムール朝を滅ぼした後、西トルキスタン

     で3ハン国が並立。イラン・中国・インドを結ぶ交易で栄えた

     が露に服属した。ウズベク人の南下により草原地帯でカザフ人

     が台頭するも、ジュンガルの圧迫を受け、露の支配下に入った。


問38    西トルキスタンに開花。ティムール朝のイラン征服後、トルコ民族が

     居住する中央アジアにイラン=イスラーム文化が伝播し、成熟。

     オスマン朝でビザンツ文化を継承しつつ独自の発展を見せた。


問39    マムルーク軍人は徴税地に代理人を派遣し、税収として得た穀物をカイロ

     の市場で売却した。カーリミー商人やユダヤ教徒の商人はカイロ

     を拠点に地中海やインド洋で活発な交易活動を展開した。


問40    14世紀頃までは、政治権力者の宗教に関わらず異教徒が共存していた

     が、キリスト教政権は徐々に異教徒への迫害を強め、グラナダの

     ナスル朝を滅ぼすと、全住民にキリスト教を強要した。


※ナスル朝は北アフリカと友好関係にあり、またカスティリャにも朝貢していた。


問41    当初はヒンドゥー教徒を迫害したが次第に融和政策に転換し、既存の

     小王朝を服属させて大幅な自治を許した。ムスリム商人や

     神秘主義教団の活動でスーフィズムがバクティやヨーガ侵攻

     と融合した。


※ジズヤを徴収し自治を許した。バクティは吟遊詩人の活動で広まった。


問42  公平な取引など商人倫理を重視したから。


問43  遠隔地交易、市場取引の拠点を中心に発展した都市文明である。


問44    学院の講義はイスラーム世界全体で共通しており、ウラマーは同じ

     教養・方法論に基づいて法判断を行った。


問45  イスラーム世界は偶像崇拝を否定したから。


問46    遠隔地交易や貨幣経済が衰え、自給自足的な農業や手工業が中心となった

     ので、生産効率化のために分業と職業の世襲化が進み、ジャーティー

     が形成された。これがヴァルナと結びついて、カースト制度

     が生まれた。


※領主層は封建的主従関係を築いて農村を直接支配した。


問47    クシャトリヤの末裔が灌漑により農業開発、都市建設を進め、ヒンドゥー教

     の諸王国が分立したが、イスラーム政権の侵入を受けた。


※ここに地方分権的なインド社会の原型が生まれた。


問48    仏教は教理研究に没頭して布教を行わず、神秘哲学化・密教化して

     民衆が遊離したうえ、ヴァルナ朝崩壊で国家の保護を失った。

     ヒンドゥー教は特定の教義を持たず、土着の多神教と融合して

     現世利益の民間信仰となった。ラ−ジプート諸侯は支配の

     正当性を確保するためヒンドゥー教寺院の建設を進め、

     仏教を吸収した。


※特定の教義は無いが、輪廻転生観や来世観を共有する。土着の多神教はヴェーダ

 に基づく。民間信仰となって教団を形成した。


問49    サータヴァーハナ朝は東西両海岸を統合し、バラモン教や仏教の定着に

     寄与した。その崩壊後、グプタ朝文化を移入しヴァルダナ朝を

     退けたチャールキヤ朝と、交易を基盤とする東海岸のパッラヴァ朝

     が争ったが、半島南端のチョーラ朝が統一し、スリランカや

     シュリーヴィジャヤに侵攻した。同朝の下でタミル語文化が栄え、

     ヒンドゥー文明が確立した。


※他にも、南端のパーンディヤ朝はパッラヴァ朝やチョーラ朝と争った。チョーラ朝は

 南インドの水田開発を進めて栄えた。


問50    デリー=スルタン朝の支配が弱まり、ヒンドゥー教徒がヴィジャヤ

     ナガル王国を建国した。ホルムズを介して西アジアから軍馬

     を輸入し、米や綿布を輸出するなど交易が栄え、ムスリム商人

     が移住した他、経済発展を基礎にカリカットなど地方領主層

     が自立した。


※ムスリム商人は西部マラバル海岸の港市に居留地を作った。

 カリカットにガマが来航した。


問51    河川を幹線とし、山塊を貫く峠道で地中海地域とアルプス以北の地域

     を繋いだことで、文明としてのヨーロッパが成立した。


※谷間に集落を形成した。古代ローマの枠組みを継承している点に注意。


問52  民族移動の影響が少なく、東ローマで帝政が継続したから。


問53    ガリア東南部にブルグンド人が、その西方に西ゴート人が侵入し、

     王国を建国した。ガリア北部のフランク王国はクローヴィス

     指導下に南下し、西ゴート人をイベリア半島に退けガリアを

     統一した。


問54    フランク人と原住ローマ人の信仰を統一し、カトリック教会と提携して

     東ゴート王国中心のアリウス派の政治秩序から離脱を図った。


問55    6世紀に正統に改宗。ローマ法や租税制度を踏襲する一方、『西ゴート

     法典』を編纂し、固有のゲルマン法との融和を図った。


問56    都市行政を教会に委任するなどローマの支配機構を部分的に継承

     したので、支配の中核は伝統的な元老院出身の司教らが担った。


問57    部族集団に分かれ、身分差を前提に従士制が敷かれた。全会一致を

     原則とする民会では貴族がゲルマン法に基づく裁決を主導した。


※帝政末期までには、ゲルマン人は傭兵・家内奴隷・コロヌス・下級官吏などとして、

 ローマに同化していった。


問58    ガリアやローマの司教の主導でブリントン人のキリスト教化が進んだ

     が、アングロ・サクソン人が定住し、原始宗教に回帰した。


問59    皇宮と中央政府を中心とする帝都であり、東西交易の結節点に位置する

     商業都市である。


問60  皇帝の戴冠式を行うと共に、属州を含む領内の全主教を統轄した。


問61    ボエティウスら名門出身のローマ系知識人が王の顧問として重用され、

     古典古代の文化を中世へ橋渡しする役割を果たしていた。


※ボエティウスの代表作は『哲学の慰め』


問62  異教徒文化の根絶とキリスト教の徹底を図った。


問63    ランゴバルド人の教化、東ローマとの和平仲介により荒廃したローマの

     復興を図った。ベネディクト派修道士をイングランドに派遣し、

     原始宗教に回帰したアングロ・サクソン人の改宗を図った。聖書の

     注解書・聖人伝などを著し、教義や典礼の統一を推進した。


問64    ローマ教会とアイルランド教会の伝道が競合し、前者が定着した。大陸、

     アイルランドから持ち込まれた文物がカンタベリ・ヨークなどの

     大司教座や修道院に保存され、ノーサンブリア文化が栄えた。


※ベーダが著した『イングランド教会史』など。


問65    古典古代の文物のうち、アウグスティヌスの『神の国』など一部が

     キリスト教的な意味を付与され、修道院や教会で蔵書された。


※トゥールのグレゴリウスが著した『歴史十巻』やセビリャのイシドルスが著した

 『語源』など。後者は百科事典であり、西ゴート文化の代表。これらは学問発展

 の基礎となった。


問66    コンスタンティノープル総主教がイエスゆかりの聖地イェルサレムを

     管轄したのに対して、ローマ教皇は初代皇帝ペテロの後継者

     であることと、ペテロの殉教地であるローマの優越性を主張した。


問67    当初は聖職者団が補佐していたが、11世紀の教会改革の過程で

     枢機卿団が組織され、教皇選出・政治・外交に関与した。

     13世紀、教皇領を拡張して教皇国家が作られ、ラテラノ公会議

     で教皇座への省庁設置が決定し、官僚組織としての教皇庁が

     成立した。


※正確には、第4回ラテラノ公会議である。


問68    7世紀末、低地地方やガリア以遠に住む異教徒への伝道のため大陸

     に渡った。ボニファティウスは教皇の委託を受け、フランク統治下

     のゲルマニアに修道院を建設し、キリスト教化に貢献した。


問69    当初は家政長官・従士団長に過ぎなかったが次第に行政の最高機関に成長

     した。カール=マルテルは教会領・修道院領を王領化し、これを

     財源に騎士を育成、ライン右岸のゲルマニアやガリア南部の諸侯

     を王国に統合した他、トゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ

     朝を破り、イスラーム勢力の東地中海進出を阻止した。


問70    教皇領の起源となり、教皇が王に権威を与え、王が教皇とキリスト教

     世界の防衛を引き受けるという西欧特有の双務関係が築かれた。


※背景はランゴバルド王国による圧迫


問71    司教区制・伯領制を敷いて統治効率を高めると共に、聖俗の有力者を

     巡察使として地方に派遣し、王令伝達や伯の監察を行った。


問72    農事暦による祭礼・教会行事や、一揆・逃散などの単位となった。

     教区教会は十分の一税の徴収や、日曜ミサ、冠婚葬祭、洗礼の実施

     などを通じて、村落共同体全体を統轄する役割を果たした。


問73    イングランドのアルクィンらを顧問とし、修道院や司教座を中心に、

     古代ローマの著作・文法・書体の継承、年代記の作成、付属学校

     での知識人の養成などを行う一方、ローマの建築論を応用した

     大聖堂の建造、ローマ将軍風の肖像画を刻んだ貨幣の鋳造など、

     古典古代文化の復興を手がかりにカロリング=ルネサンスを

     現出した。


※修道院や司教座は中世西欧の知識基盤であったと言える。


問74    スラヴ人やアヴァール人の侵入で帝国の支配領域はエーゲ海域まで縮減

     し、ギリシア語を公用語とするビザンツ帝国へと変貌した。


※ラテン語からギリシア語に変わった。


問75    聖像崇拝派の修道院を弾圧し、修道院領を中心に発展しつつあった大土地

     所有を抑え、テマ制を強化すること。


問76    ヘレニズム文化を基調に、古典古代文化と東方文化を融合した独自の

     文化を築いた。ビザンツ文化が継承したギリシアの古典は

     イスラーム世界から西欧に伝わり、ルネサンスの開花に影響した。

     スラヴ族へのギリシア正教の布教や交易を通じて独自の東欧文化圏

     を形成し、ビザンツの帝国理念や宗教はロシアに継承された。


問77  農繁期には本国で農業を営み、略奪と同時に交易も行った。


問78    原始宗教を奉じるモラヴィアは東フランクのカトリック伝道師を

     退け、キュリロスらビザンツの正教伝道師を招いた。カト

     リックと正教の伝道競争の末、西スラヴはローマ=カトリ

     ック圏となった。


※モラヴィアはマジャール人に滅ぼされた。キュリロス・メティオドスの兄弟は布教の

 ためにグラゴール文字を考案して聖書を翻訳し、スラヴ語で

 伝道を行った。他方、カトリック伝道師はイコンを用いて

 布教を行った。10〜11世紀の間にグラゴール文字は

 ギリシア文字を元にしたキリル文字にかわった。


問79

(a)  南部をアラブ人が支配し、北部では875年のカロリング朝断絶後、諸侯・

   教皇領・都市が王位を巡って争った。10世紀初頭、シチリア全島を

   抑えたアラブ人が西地中海を制圧し、イタリア半島の沿岸諸都市を攻撃

   する一方、北部・中部にマジャール人が侵入した。世紀後半にはドイツ

   王が、11世紀半ばにはノルマン人が侵入した。


※侵入したノルマン人の中に、ロベール=ギスカールがいた。


(b)  ロロによるパリ市包囲に際し防衛に貢献したロベール家のウードが台頭する

   など、ノルマン人の侵入の中で諸侯が豪族化した。王はキリスト教への

   受洗と王への宣誓を条件にロロの支配領域をノルマンディー公領として承認

   したが、カロリング朝は987年に断絶した。


(c)  911年のカロリング朝断絶で部族太公が分立した。東方からマジャール人や

   スラヴ人、北方からデーン人が侵入。ザクセン朝を創始したハインリヒ1世

   は東部に辺境伯領とマルクを設置して防衛体制を固め、ロートリンゲンを

   併合した。次ぐオットー1世はレヒフェルトの戦いでマジャール人を討ち、

   スラヴ人を攻撃、二度のイタリア遠征を機にヨハネス12世から戴冠され

   神聖ローマ帝国が成立した。


問80    帝国教会政策で教会を行政機関化し太公勢力に対抗したが、却って

     聖界諸侯の台頭を促した。ザクセンのマグデブルクにエルベ川

     以東のスラヴ人への伝道拠点として大司教座を設置するなど

     異教徒への伝道を使命とし、その皇帝理念は子孫にも継承

     された。


※西スラヴ諸族への布教を目指し、ボヘミアには司教座、ポーランドとハンガリーには

 大司教座を置いた。子孫とは即ち、オットー2世やオットー3世のこと。


問81    首都・官僚・常備軍を持たない神聖ローマ帝国は封建貴族の第一人者に

     過ぎず、司教・修道院に土地や特権(インテムニート)を与え官吏

     や兵士として組織することで、反帝諸侯に対抗し、国内の統一を

     進めようとした。


問82    聖なるローマ教会の世界に対応した、皇帝の超国家的支配という普遍的理念

     が確立した。


問83    私有教会制の下で司教座や修道院が世俗化し、寄進を受けて諸侯化した

     聖職者の間では、妻帯や聖職売買などの悪習が蔓延っていた。


問84    エグバートによる王国統一後、デーン人が侵入した。独立を保った

     ウェセックスのアルフレッド大王は、中央・地方の統治機構として

     国王宮廷・州を設け、仏から教会改革運動を輸入した。再侵入

     したデーン人は貢納による融和を拒み、クヌートがデーン朝の

     下で北海帝国を築いた。彼の死後即位したエドワードは亡命先の

     ノルマンディー公領出身の貴族を重用して反発を招き、次ぐ

     ハロルドはノルマンディー公ウィリアムにへースティングズの戦い

     で敗北、ノルマン朝が成立した。仏から封建制を導入し、アングロ

     =サクソン人から奪った土地をノルマン人諸侯に与え、軍役を

     課す一方、全国規模の検地を実施して検地帳を作成するなど、

     比較的王権は強かった。


※クヌート(カヌート)はデンマーク王ハーラルの息子。


問85    カール大帝がハンブルクを拠点にスカンディナヴィア地域への伝道を

     始めた。統一王権を形成したノルウェーやスウェーデン、デンマーク

     は、バルト海を挟んで西スラヴ諸族やキエフ公国と軍役・交易上の

     関係を結んだ。


問86    政治的には帝位を得た前者が諸侯分立状態の後者に優越したが、文化的には

     後者が司教座や修道院を拠点に先進性を保った。


問87    キリスト教的統治理念と固有の教会組織を持つ君主国がキリスト教圏

     としてまとまり、イスラーム勢力と衝突・交流した。

     西地中海域では、イベリア半島にレオン王国・後ウマイヤ朝・

     バルセロナ辺境伯領が鼎立する一方、ムスリム商人が交易で

     活躍した。東地中海域ではビザンツ帝国がマケドニア朝の下で

     領土を回復し、バシレイオス2世はブルガリア王国を併合する

     など、帝国の最盛期を築いた。


※レオン王国は前進のアストゥリアス王国を継承したが、アラゴンと共にナバラ王国

 から独立したカスティリャが11世紀に併合した。バルセロナ辺境伯領は11世紀

 〜15世紀の間、アラゴンと連合王国を形成した。


問88    王の権威を誇示すると共に、少ない王領地収入を補うため、巡幸地で

     公課を回収した。


※役務の提供を受けることもあった。公課は貨幣経済の浸透で金納化して運搬が容易

 になり、国庫に輸送し帳簿に記録するようになったが、これが統治府を首都におく

 近世王権の経済的な前提条件となった。


問89    中世は官僚機構を欠き、首都を一ヶ所に定めない巡幸王権であるが、近世は

     官僚制と常備軍を持ち首都を中心とする絶対王政である。


※首都には国王が居住し、行政機能が集中した。


問90    奴隷と異なり、住居や農具など財産を保有し家族を構成するが、自由民

     と異なり、移転や職業選択の自由、保有地処分権が無い。


※半自由民と言ってもいい


問91    土地経営が高知と村落からなるひとまとまりの単位になっており、

     所領の売買や寄進、下賜を行うのが容易であった。


※いわゆる「古典荘園」は教会や修道院による開墾・私領経営によって生まれた。

 イスラーム勢力による経済封鎖で欧州が貨幣経済から自給経済に転換したとする説

 は見直されている。経済封鎖に資料的根拠は無く、確かに奢侈品交易は一時的に

 衰退したが、地域的な日用品交易は継続しており、これらを統合・発展させる形

 で生まれたのが「商業ルネサンス」であるとする説が最近では有力らしい。


問92    レオ9世の下で教皇座の改革が進み、軍事・外交を補佐する枢機卿団

     が組織された。私有教会制からの離脱を目指す「教会の自由」

     の理念の下、枢機卿が選出する教皇の首位権が主張された。

     その地位は教義上の問題への回答や大司教の承認などを通じて

     浸透し、「教皇の代理」として書簡や特使が地方に送られた。

     一方、首位権争いの激化を受け、教皇と総主教の相互破門で

     東西教会は分裂した。


※教義や典礼を巡る問題をきっかけに東西教会は対立を深め、1054年

 相互破門に至った。


問93    王権が弱く集権的国家が存在しないので、前者では貴族の、後者では騎士

     の私闘を教会が調停し、非戦闘員の財産を保障した。


※私闘はゲルマン社会では合法的であった。


問94    マクシミリアン1世の治世下、ヴォルムス帝国議会で永久ラント平和令

     が制定され、諸侯の自力救済権は完全に否定された。新たに設置

     された帝国裁判所に裁判機能が一元化される一方、社会秩序の悪化

     の中で、帝国は皇帝を監視し、諸侯の合意を形成する場となった。


問95    神聖ローマ・イスラーム・ビザンツに対抗しうる武力の確保を図った。

     ハインリヒ4世が破門解除後に対立教皇クレメンス3世を擁して

     ローマを占領した際、彼は教皇を救出し、サレルノに導いた。


※ロベール=ギスカールの甥が両シチリア王国を建国したルッジェーロ2世。


問96    大土地所有の進展でテマ制の維持が困難になる中、ブルガリア・セルビア

     の反乱、セルジューク朝の小アジア侵攻、ノルマン人の南イタリア

     進出などを背景に、軍事奉仕を条件に公有地の管理を貴族に委任する

     プロノイア制を導入した。帝国の封建化が進んで皇帝権が失墜する

     一方、貴族連合体制の下で国内は相対的に安定した。


問97    西地中海での戦闘ではピサとジェノヴァが、東地中海ではヴェネツィア

     が海上輸送を担って収益をあげ、海軍力を増強した。結果、

     地中海の軍事・通商上の制海権は、従来のイスラーム勢力・

     ビザンツ帝国から、北イタリアの海港都市へと移っていった。


※東方貿易を行ったり、アイユーブ朝やマムルーク朝の君主に戦争資材を供給した。

 東方貿易とは、東地中海沿岸(小アジア・シリア)でイタリア商人が行った貿易

 のことである。東方貿易と紅海貿易を混同しないように。紅海貿易とは主にカイロ

 を拠点に活動するカーリミー商人(ムスリム)がインドのグジャラート半島から

 来航した商人と行った交易のことである。もちろんカイロにはイタリア商人や

 アルメニア商人も進出している(ヴェネツィア共和国の総領事がある)が、イタリア

 商人は主にこのカーリミー商人を介して東方物産(香辛料など)と南独産の銀や

 フランドル産の毛織物を交換した。獲得した香辛料を東地中海域をはじめ各地に転売

 することで利益をあげたが、インド航路の開拓やイギリスの毛織物貿易参入で独占

 が崩れた。その契機がディウ沖の海戦である。


問98    遠征費調達のため君主が徴税制度を整備し、封建領主が没落する一方、

     その遺領を没収した王権が伸長した。遠征を通じて交易路が開拓

     され遠隔地商業が進展したことで、人・モノの移動が活発化し、

     12世紀ルネサンスが花開いた。帰還兵は紋章・シャーベット

     などの物質文化と、異教徒虐殺を正当化する聖戦理念を

     もたらした。


※遠征への長期従軍で領主層の所領は荒廃した。遠征=ヨーロッパ世界の膨張(初期膨張)

 でアルプス以北で成長していた君主国が地中海域に引き入れられ、ここに国際的な

 ひとつの政治圏が形成された。帰還兵がイスラーム勢力から先進文化を学び、12

 世紀ルネサンスの中心となったわけでは無い。彼らの多くは文盲で文化を学ぼう

 とする意識は無く、個別の利害に基づいて従軍していた。そのため、ソファなどの

 物質文化を持ち帰るに止まった。ただし、従軍した領主の中には近東地方の優れた

 城郭建築を学び、自らの城塞の強化に利用したものもいた。聖戦理念とは、暴力は

 教皇が与える免罪によって赦されるとするもので、十字軍への参加は魂の救済を

 得るための贖罪行為と捉えられるようになった。その一方でユダヤ人などへの

 差別意識が強まったことにも注意しなければならない。


問99    第1回は聖地奪還を目的としたが、それ以後はローマ教皇の権威の喧伝や、

     イタリア諸都市の権益拡大のための商業戦争となった。


問100  10世紀以降、欧州では聖職者・戦士・農民への職能分化が進み、

      戦士は主君と封建的主従関係を結んで封土を得る一方、戦場では

      騎士として軍役を担い、十字軍を支えた。彼らは貴族の下層を

      構成する一身分となり、宮廷に集って独自の騎士道文化を作り上げた。


問101  法的擬制、双務的契約関係を基盤とし、複数従臣制も認められた。


※法的擬制とは、実際には主従関係は成文化されていないが、臣下が所領を主君に

 差し出し、主君が改めてそれを臣下に封土として与えることで、関係が成立した

 とする慣行のことである。(託身)しばしば西欧封建制度は臣下に貢納義務が

 無かったと説明されるが、主君が捕虜となった場合の賠償金支払い、主君の長男

 の騎士叙任式・主君の長女の結婚式の費用支払い、主君のイェルサレム巡礼費

 支払いなど様々な経済負担が課された。また、主君に対する助言義務などそのほか

 にも様々な負担があり、中国の封建制度などと比べて必ずしも制度的負担が

 軽かったとは言えない。


問102  イスラーム・ビザンツの統治制度を継承し、財務行政と司法行政

      における官僚制を整備して中央集権を図った。首都パレルモ

      にはアラブ人・ギリシア人・ラテン人が集い、国際文化が栄えた。


※高度な官僚制が発達したとする通説は見直されている。中央である程度発達した

 官僚制度は地域的な行政制度と並存していたらしい。この官僚制は英仏独で

 模倣された。


問103  フリードリヒ1世はビザンツ領を併合してシチリアの進出を抑えた。

      フリードリヒ2世はパレルモの王宮でアラブ人・ギリシア人・

      ラテン人から成る官僚制度を整備する一方、ナポリ大学を創設した。


※このころドイツ国内では諸侯の台頭が著しかった。フリードリヒ2世没後、ドイツは

 シチリアを失い、その後大空位時代に突入する。


問104  従来の集落は散村が一般的であり、領主が派遣した荘司が各荘園

      を治めていたが、第二次民族移動の混乱の中で農民は領主の

      近くに集住するようになり、集村化と領主による支配の一元化

      が進んだ。


問105  穀草式・二圃制から三圃制に転換し、鉄製重量有輪犂を馬に括り付ける

      繋駕法(けいがほう)、耕作馬用の蹄鉄、灌漑用の水車などの導入

      によって農業生産力が向上した。人口の増大は初期膨張を支えた。


問106  領国開発を図る君侯は植民請負人に植民者の招致を委託し、植民法で

      開墾後の一定期間貢租を免除するなど出身地より優位な地位を保証

      した。植民者は相続から排除された農民の子弟が中心であり、

      レコンキスタが盛んなイベリアや、独仏国内でも運動を展開した。


※ドイツ西部の低地からドイツ東部のスラヴ人地域への東方植民など。


問107

(1)  古代ローマに起源を持つ司教座都市、王侯の城塞を核とする行政=防備都市、

   商人集落から発展した都市など既存の都市が発展したものと、

   植民運動の中で交通の要衝などに新設された都市があった。


(2)  共通点。同業者組合の商人や手工業者を主体とする経済都市である。相違点。

   西欧が独自の軍隊や都市法、裁判機構を持ち、領主支配に対抗する自治組織

   であるのに対して、中国は皇帝に従属した。


(3)  伊の都市は都市共和国として完全な自治権を得て、大商人と貴族が融合した

   貴族が主導し、周辺の農村や弱小都市も支配した。独の都市は諸侯や農村

   と対立して市壁内のみを支配し、皇帝直属の帝国都市となったが、市民の

   成長に伴って自由都市化した。英仏の都市は王権の伸長に伴って繁栄し、

   国王が住む行政の中心となった。


(4)  伊の都市は地中海商業圏の中心であり、香辛料など投機的な奢侈品売買のため

   銀行・保険業が発達したが、独の都市は北欧商業圏の中心であり、木材・

   穀物など日用品を現物・現金で取引した。


※伊では都市貴族が、独では親方が取引の中心となった。奢侈品には他に絹織物が

 日用品には他に魚類の加工品などがある。


(5)  ヴェネツィアは総督と都市貴族からなる評議会が本土と海外領土を統治した。

   フィレンツェは平民が都市の支配権を握った。イングランドはシモン=

   ド=モンフォールら諸侯主導の国制改革の過程で初めて都市の代表が議会

   に招集された。


(6)  新興商人は商業圏の拡大に伴って国内市場の安全・統一を求めたので、中央集権

   的な政権を待望した。


(7)  貨幣経済が浸透した時代の統治者にとって都市は有望な財源であり、君侯は

   領内の都市化を推進しつつ、造幣権・市場開設権・通行税徴収権などを

   用いて都市から利益を吸い上げようとした。


(8)  コミューン運動で都市領主から特権状を得た市民は、都市法に基づいて

   市参事会を中心に自治を行い、独自の軍隊や裁判機構、外交機能を

   整備したが、屋敷地を持たない貧民や親方層以外の手工業者は市政

    から排除され、都市貴族化した大商人がギルドを介して

    市民生活全般を規制したため、階層間・党派間の対立が

    激化した。


※屋敷地を持たないことは市民権を持たないことと同義。階層間の対立の例が

 ツンフト闘争。党派間の対立の例が13世紀のイタリアにおける皇帝党と教皇党

 の対立である。


(9)  都市は聖堂を中心に行政・信仰・相互扶助の単位である街区に分割され、

   中央の広場では定期市や行政の公示、公開処刑が行われた。


問108  商人ギルドは商人の相互扶助や規制を目的とした。手工業ギルドは職種

      ごとの価格統制や品質保護を目的とした。兄弟団は共通の守護聖人に帰依

    することで、慈善活動や埋葬時の相互扶助を図った。


問109  出身都市に対する帰属心が強まり、都市を称える詩や都市の歴史を記す

      年代記が書かれ、紋章や印璽が市民意識を象徴した。


問110  十字軍の物資輸送で得た資金で海軍力を増強し、アドリア海沿岸・

      クレタ島・キプロス島を植民地とした。14〜15世紀、内陸の

      ロンバルディア平原まで領土を拡大したが、オスマン帝国の圧迫を

      受け、レパントの海戦ではスペインと結んで勝利するもキプロス島

      を割譲した。


問111  ルネサンス後期に絵画の分野でティツィアーノらが現れた。油絵具

      を用いた情緒的で感覚的な色彩主義の絵画を中心とするヴェネツィア派

      を確立し、17世紀以降の欧州の絵画に大きな影響を与えた。


問112  12〜13世紀はシャンパーニュが中心であったが、14世紀には

      フランドルやアントウェルペンに移った。


問113  母修道院とそこから派生した娘修道院が共通の会則や総会への出席で

      結ばれ、母修道院が巡察を行った。


問114

(a)  前者は集権化を志向する領主的な組織だが、後者は低地の開発や東方植民を

   指導するなど民主的な組織である。


(b)  前者は感情的・行動的であり、後者は理性的・学問的である。


問115  ドミニコ会のトマス=アクィナスは『神学大全』でスコラ学を体系化

      した。フランシスコ会のロジャー=ベーコンは自然科学とスコラ

      学の統合を唱えた。ルブルックやプラノ=カルピニは外交使節と

      としてモンゴルに派遣された。托鉢修道士たちは市民に信仰教育

      を施す一方、教皇の配下として異端審問を行うなど多方面で活躍した。


問116  トレドやパレルモで古典古代の文物がラテン語に翻訳され、知識と教師

      を求めて各地を遍歴する修道士・学生が都市に集まった。彼らは

      司教座付属学校や私塾で神学・自由七科を学び、やがて教師と学生

      が領主から自立した教育機関として、大学を設立した。


※ウニウェルシタスと呼ばれる。翻訳事業では国際的ネットワークを持つユダヤ人

 が活躍した。


問117  文法学・修辞学・論理学の3学と、算術・幾何学・音楽・天文学

      の4科から成り、哲学・神学・医学などの基礎教育となった。


問118  クリュニー改革運動やシトー会の活動を通じて修道院や都市が増加し、

      聖堂に対する需要が高まっていた。


問119  イスラーム軍のエデッサ伯領攻略を機に教皇が十字軍を提唱。シトー会

      のベルナルドゥスの説教を受けて仏王ルイ7世と独王コンラート

      3世が出征し、十字軍国家と結んで戦うも成果は無かった。


※エデッサ伯領は第1回十字軍で生まれた十字軍国家のひとつ。他にはイェルサレム王国

 アンティオキア公領、トリポリ伯領など。十字軍に加わった者の多くは帰還したため、

 十字軍国家では生産者人口と軍事力が不足していた。結果、イスラーム勢力の攻撃

 対象となった。


問120  君主とその宮廷・家門を主体とする中世の国家のこと。


※モナルキアとも呼ばれる。


問121  反帝諸侯の牽制、ローマ法に基づく皇帝理念の実現、帝国教会政策

      の維持などを目的としたが、国内統治が弛緩して分権化が進み

      、イタリアでも教皇党と皇帝党が分裂し、統一が妨げられた。


※反帝諸侯は北伊や南独に多い。教皇党は仏王、アンジュー家と結んでシュタウフェン家

 を滅ぼした。フィレンツェが中心。


問122  都市内部で皇帝と結ぶ封建貴族と教皇と結ぶ新興商人が争い、都市内部

      の派閥争いや個人の利害を正当化した。


※当初は政治的意義を持っていた党派の結束・対立も、次第に世俗的な経済闘争における

 自らの主張を担保するための名目へと変質していった。


問123  フィリップ2世は新村や都市の建設で王領地を拡大し富国強兵を

      図った。英から領土を奪回し、南仏のカタリ派を平定して統一

      を達成した。ルイ9世はローマ法を学んだ法曹家を登用して

      王権強化に利用した。フィリップ4世は三部会を召集し

      アナーニ事件で教皇を屈服させた。ヴァロワ朝は百年戦争

      で英を退け集権化を進めた。


※フィリップ2世は英からノルマンディー・アンジュー諸地方を奪回した。法曹家

 は市民出身で、アナーニ事件で教皇を捕らえたのも法曹家ギヨーム=ド=ノガレ

 である。彼らは主に王室法廷で活躍し、法的に王権を支えた。


問124  前者は重厚な安定感が固定的な封建秩序を象徴した。後者は塔や天井の

      高さが教会の権力と新興市民の豊富な財力を象徴した。


問125  ボローニャ大学の教会法学者が編纂した『グラティアヌス教令集』

      で公会議決議や教皇令から成る教会法が体系化された。アルビジョワ

      十字軍などを通じて教皇座に異端審問制度が整備される一方、

      教皇座は破門などの教会刑罰を用いて君主国間の紛争に介入した。


問126  封建的監修や課税承認権などの特権を国王に承認させた。結果、諸侯

      は王権の監視役となり、法の支配を明文化したことで英立憲政治

      の基礎が築かれたが、法典は帰属や市民の権利を羅列した物

      に過ぎず、体系性を欠いていたため、修正の必要に迫られた。


問127  仏王権を後ろ盾に教皇国家を巡る戦争を指揮し、教皇庁の組織改革と

      徴税制度の導入で財政を再建した。


問128  教皇庁のローマ帰還後、イタリア派の教皇がローマに、フランス派の

      教皇がアヴィニョンに並立した。


※こうして欧州世界は二つの陣営に分裂した。


問129  英仏は毛織物の産地のフランドル、ワインの産地のギュイエンヌを

      争った他、カスティリャの内乱やポルトガルの王位継承戦争

      に干渉し、それぞれ別の陣営に対して軍事的な支援を与えた。


問130  毛織物の産地フランドルへの羊毛輸出で英と競合する一方、大西洋

      漁業を通じて造船・操船技術を高め、大航海時代を準備した。


問131  戦費調達のため頻繁に議会が開催かれ二院制が定着する一方、人頭税

      の導入に反発してワット=タイラーの乱が起こった。バラ戦争で

      王位継承争いに参加した貴族が没落し、庶民院(下院)が行政

      主体となった。


問132  シャルル7世は常備軍と官僚制を整え、ジャック=クールら大商人

      と結んで聖俗諸侯を抑えた。次ぐルイ11世はブルゴーニュ公領

      を併合して中央封建的統一を達成し、絶対王政の基盤を確立した。


問133  仏との国境紛争を優位に進めるため英仏の対立に干渉する一方、

      イタリア政策も継承した。アヴィニョン教皇庁座と教皇の

      帝位承認権を巡って争い、ウィリアム=オブ=オッカムの

      人民主権説に基づいて、ローマ皇帝位は人民による選出のみに

      基づくと主張した。


※ウィリアム=オブ=オッカムは理性と信仰を分離し、スコラ哲学を解体した。逆に、

 実在論は神秘主義と接近した。


問134  金印勅書で臣民の代表である七選帝侯に皇帝選出権を与えた。帝国宮廷

      のプラハへの移転、皇帝のボヘミア王・ハンガリー王兼任、

      12世紀以来続く東方植民運動により、帝国の重心は東方に

      移動した。


問135  封土・官職を私有財産と結合する一方、裁判権・鋳貨権など国王の

    特権を奪い、世襲の君主が土地を集積して一円的な支配を行った。


問136  ハプスブルク家に対抗してウーリなど三邦が永久同盟を結成。アルプス

      通行の要衝である峠道の保護のため多くの邦が加わり、スイス

      盟約者団となった。ハプスブルク家やブルゴーニュ公と戦って

      独立を達成する一方、盟約者団の兵士は教皇や仏王の傭兵となった。


問137  12世紀、内乱を克服したデンマーク、フィンランドを征服した

      スウェーデンは、ザクセンやホルシュタインなど北独諸都市や、

      海への出口を求めるノヴゴロドと争った。13世紀、東方植民

      に伴いリューベックなどハンザ諸都市が発展し、バルト人の改宗

      を図るドイツ騎士団がイェルサレムから移転した。モンゴルの

      バトゥが侵攻し、ポーランド・ドイツ騎士団連合軍はワール

      シュタットの戦いで敗れた。キプチャク=ハン国の支配下に

      入ったロシアは貢納でモンゴルの侵攻を回避し、スウェーデン、

      リトアニア、ドイツ騎士団を撃退した。14世紀、陸海軍を整備

      したハンザ同盟、プロイセンで国家建設に着手したドイツ騎士団

      に対抗し、北欧3国はカルマル同盟を結成した。ポーランドは

      カジミエシュ大王の下で国力を高め、リトアニアと結んで

      ヤギェウォ朝を創始、タンネンベルクの戦いでドイツ騎士団

      を破った。ロシアではモスクワ大公国のイヴァン3世が

      タタールの軛を脱した。


※貢納でモンゴルの侵攻を回避したのが、ノブゴロド公アレクサンドル=ネフスキー。

 ドイツ騎士団は東方植民で耕地を集積し、穀物・木材を輸出して得た利益で国家を

 建設した。ヤギェウォ朝はタンネンベルクの戦いで勝利してバルト海東部での覇権

 を確立した。


問138  英蘭両商人の進出、絶対主義国家の重商主義政策で独占が崩れ、商業革命

      で商業の重心は大西洋岸に移った。領邦君主による都市の圧迫、

      加盟都市間の抗争が激化し、三十年戦争で都市が荒廃した。


問139

(a)  英は庶民院を起源に持つため身分規制は緩く、当初から中央議会が

   全国を代表した。開催は頻繁で、二院制は近代議会に継承された。

   仏は身分別の厳格な三部会が中央だけでなく地方にも設置された

   が、王権の下で開催は制限され、フランス革命を経て消滅した。


(b)  前者は課税承認権を通じて王権を制約したが、立法権や議会の開催・

   運営権は王が握っていたため、選挙は行われず、王が諸身分の

   代表者を集めて利害調整を図った。後者は王政から立憲君主制への

   移行を背景に成立した公選制議会であり、立法権を持つ国権の

   最高機関であった。議会政治の中で身分を超えた公議が形成された。


※身分制議会と王権の均衡のうえに成立する国家を身分制国家という。


問140  十字軍に際し騎士以外の階層から募集され、教皇の認可を得て成立

      した修道会であり、聖地の警備、巡礼者や傷病者の保護を行った。

      教皇に直属したが、王侯から特権や寄進地を得て台頭した。


問141  商業・金融で活躍したが、その富を狙う仏王フィリップ4世の圧迫

      を受けて解散した。


問142  人民の代表機関の公会議に教皇の任免権を与える公会議主義の下、

      コンスタンツ公会議でシスマは解消した。


※公会議を開催することで国家間の利害調節と平和の確立を目指した。それは、

 教会大分裂で教皇権が失墜する中、教皇より上位の機関を設けることでヨーロッパ

 世界の一体性を回復しようとする動きであった。ヨハネス23世の名で招集された

 のがコンスタンツ公会議。そこで選出されたのがマルティヌス5世。


問143

(a)  耕作地を放棄した農民の流入で下層民が増加し、ユダヤ人の排斥や、

   チョンピの乱のような労働者の反乱が起こり、秩序が悪化した。


(b)  荘園経営の停滞や戦術の変化で自立性を失い、王権と結んで廷臣化するか、

   地代を徴収するだけの郷紳となった。


問144  教階制や富の所有を批判するウィクリフ主義(反教権主義)は追随者

      (ロラーズ)を生み大陸に伝播した。これを継承したフスが

      コンスタンツ公会議で処刑されると支持者が反乱を起こしたが、

      バーゼル公会議で和解した。


問145  オスマン朝はコソヴォ=ポリエの戦いでセルビアを征服し、バルカン

      半島に進出した。ビザンツ皇帝マヌエル2世の要請でハンガリー

      王ジギスムントがニコポリス十字軍を組織したが、バヤジット1世

      に敗れた。皇帝は自ら西欧へ救援要請の旅に出発し、フェラーラ=

      フィレンツェ公会議で東西教会合同の合意に達するも、失敗した。


問146  教会(キリスト教会)権威に従属し、神学(スコラ学)中心だあった

      中世思想から脱却し、人文主義者による古典古代の研究を通じて

      個人の解放を図ったが、教会・貴族など中世的権力の保護に依存

      したため、啓蒙思想のように実践的な社会改革案を提示すること

      はなく、精神的改革に終始した。


問147  フィレンツェを拠点にイタリアルネサンスが興るも、シャルル8世の

      侵攻やサヴォナローラの神権政治で混乱すると、中心地はローマ

      、ヴェネツィアと移動した。イタリア戦争で国内が荒廃すると

      ルネサンスの成果は外部に広まり、北方ルネサンスが興った。


※シャルル8世はダヴィンチを宮廷に招待した。

















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