海外でも大人気を誇る【Vikings: War of Clans】(ヴァイキング:クランの戦争)

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第1問



下記の文章群(A)〜(F)は、帝国主義の時代に、アジア・アフリカの民族運動が成

長していくとき、植民地化されたアジア・アフリカの諸地域の民衆が、指導者だけで

なく、国際的な移動や交流をすでに盛んにおこなっていたということを示している。

しかも、その移動や交流には、この時代独特の姿を見ることができる。そのような移

動や交流が地域を超えて大規模におこったことの原因と意義とについて自分の考えを

まとめ、600字以内で述べよ。



(A)兄を頼ってハワイに渡りホノルルの高校で学んだ孫文は、香港などで医学を修め、

ポルトガル領マカオで開業したが、やがてそこを追われた。日清戦争直後、華僑の援

助を得て広州に挙兵したが失敗し、アメリカ・ヨーロッパを経て日本に亡命した。そ

の頃これら各地には中国人の社会ができていた。中国革命同盟会の基本思想となる三

民主義は、孫文のこのような遍歴の中で構想された。


(B)イギリスに留学して法律を学び弁護士となったガンディーは、1893年から20年間

も南アフリカにあって、その地のインド人の地位向上のために活動した。彼の非暴力

抵抗の思想の原型はこの活動の中でうみ出された。彼が帰国するのは第1次世界大戦の

開始後であるが、この戦争では150万人ものインド兵士が西部戦線にかり出された。


(C)少年時代から独立運動に身を投じたホー=チミンは、官憲の追跡を逃れて、船員

となってヴェトナムを脱出した。ヨーロッパに渡った彼はフランス社会党員となり、

1920年フランス共産党が成立するとただちにこれに加入、モスクワを経て中国に入り、

中国革命にも参加した。この間、在外ヴェトナム人の組織化をすすめ、被圧迫民族解

放同盟を結成するなどして、国際的体験を深めた。


(D)カスピ海に面するアゼルバイジャンの都市バクーは、19世紀初めロシアの支配下

に入ったが、そこで産出される石油のため、20世紀初めには多数の東洋人労働者を集

める国際色豊かな町となった。1906年のイラン立憲革命でも、またレザー=シャーの

パフレヴィー朝創始に先立つ北部イランの革命運動でも、バクー在住のイラン人の役

割は大きかった。


(E)20世紀初めのアフリカでは、各地でキリスト教の独立教会をつくろうとする黒人

たちの動きが、植民地当局に対する反抗運動へと発展していた。これらと手を結ぼう

としたジャマイカ出身のマーカス=ガーヴェイは、アメリカの黒人に向かっては、アフ

リカに帰って黒人のアフリカをつくろうと呼びかけた。アフリカ、西インド諸島、ア

メリカ合衆国から代表が集まった第1回パン=アフリカ会議(1919年、パリ)は、アフ

リカ人の政治的独立をめざす決議をおこなった。


(F)スエズ運河開通後、紅海経由の定期航路が開設されると、東南アジアのイスラム

教徒たちはそれまでよりも早く、かつ安く聖地への巡礼に行くことができるようにな

った。メッカには数年にわたって滞留するジャワ、スマトラ、マレー半島などの出身

者の集団が出現し、本国と連絡を取りつつ、ヨーロッパの支配に反抗するイスラム教

徒のジハード(聖戦)のための連帯を呼びかけた。19世紀末から20世紀初めにかけて

のインドネシア各地でおこった反植民地闘争には、巡礼から帰った宗教指導者たちが

深い関わりを持っていた。

























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