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【古代編・解答】問1 出身や家系に拘らない新しい貴族層・官僚層の下で法治主義的な 中央集権体制が整備され、皇帝は宗教を背景に普遍的権威 となった。 問2 現人神として政治を行うファラオとそれを補佐する少数の神官の下に、 租税と無償労働を負担する大量の不自由農民がいた。 問3 エジプト中王国の衰退に乗じて戦車と馬をもつヒクソスが侵入し、 傭兵として定着したが、クーデタで王位を簒奪した。 問4 テーベからアマルナへの遷都、アモン信仰からアトン信仰への転換 という宗教改革に忙殺され、一時的に侵略的外交から 平和的外交に転じたため、ヒッタイトの南下など国際情勢 への対応が遅れた。 ※アトン信仰はユダヤ教の影響を受けている 問5 前者は静止画的だが、後者のフレスコ画は植物を動的に描く。 問6 共通点。オリエントの影響を受けていること。相違点。前者の宮殿は 城壁が無く、平和的であるが、後者の宮殿は城壁を持ち、 尚武的である。農民から貢納物を取り立て、宮殿を中心に 再分配する中央集権支配を行った。 問7 亡命貴族の土地を市民に分配した。ラウレイオン銀山を開発し、その 収入で神殿を建設した。ホメロスの叙事詩の書籍化、宗教儀礼 の復興で愛国心を高めた。これは民主制改革の土台となった。 ※宗教儀礼とは、アテネ女神への礼拝やディオニュソスの祭典などである。 民主制改革とは、クレイステネスの改革のことである。 問8 市民の総会である民会を補佐し、デーモスから選出された議員が日常行政 を担当した。 ※五百人評議会は民会の先議機関である。 問9 民会が最高決定機関であったが、2名の王が軍隊指揮官となり、長老たちと 共に民会にかける議案を先議する権限を持った。 ※王は国の祭祀も司った。長老会は拒否権を持った。前6世紀からは民会が一般市民 の中から選んだ5人の監督役(エフォロイ)が国政の最高機関となった。 問10 三段櫂船の漕ぎ手である無産市民の活躍と、ラウレイオン銀山からの 収益に基づく海軍力の拡充。 問11 近世・近代以降の欧州は古代ギリシアに人間の理想と芸術の規範を 求めたので、ペルシア戦争を経て形成された異民族蔑視感を 継承し、「文明化の使命」の観念に発展させた。 問12 ギリシア本土で諸ポリスが蜂起し、アテネも海軍を復活させた。 対抗を図るスパルタはペルシアと大王の和約を結び、小アジア を割譲したが、レウクトラの戦いでテーベに敗れ、覇権を譲った。 問13 聖典と聖職者を欠き、民衆が自ら儀礼に参加してオリンポス12神など を信仰した。 問14 前者は役人の文書行政の一環であったが、後者は個人が自由な立場で行う 歴史叙述であり、近代歴史学の先駆となった。 問15 前者は王制を廃してポリスを形成し、貴族制、民主制と移行したが、 後者はポリスを作らず王国を形成した。 問16 アテネ内部で弁論家の意見が分かれ、デモステネスはギリシア諸ポリス による反マケドニア連合の結成を説き、イソクラテスはマケドニア 中心のギリシア統合とペルシア遠征を説いた。また、傭兵への 依存により重装歩兵市民としての国防意識が薄れていた。 問17 アレクサンドロス帝国はギリシア文化の優位を前提に統治に都合の良い 東方文化を選択的に利用し、帝国分裂後東西文化の融合が進んだが、 都市で活動するギリシア人・マケドニア人ら支配層中心に 享受され、東方の服属民に対する影響は限定的であった。 他方、前3世紀頃には東方文化の要素が強まり、ギリシア文化 は衰退した。 問18 3次に渡るポエニ戦争でカルタゴに勝利して西地中海に制海権を確立し、 アンティゴノス朝マケドニア・セレウコス朝シリアと戦って 前2世紀後半にはギリシアと小アジア、前1世紀前半にはシリア を獲得した。世紀末、アクティウムの海戦でプトレマイオス朝 エジプトを破り、東地中海を制圧。地中海全域に覇権を確立した。 問19 属州の防衛と治安維持のため軍隊指揮権を掌握し、コンスルや護民官の 職権を手に入れ、国家宗教の最高神官となった。 問20 前者は故地と気候・風土の近い沿岸部のみに植民したが、後者は 内陸部に都市を作った。 問21 東部ではヘレニズム時代以来の諸都市が繁栄を続け、東方文化の 要素が強まったが、西部ではローマ風の都市が建設され、 土木技術などの実用文化だけでなく、宗教や生活様式など 普遍文化も広まった。 問22 小規模な自治組織として属州行政を担い、ワクフを財源に公共建築 ・娯楽の提供を行う一方、住民の大半は農村で牧畜等に従事した。 問23 ローマ法はローマ市民を対象とする私法の体系であったが、属州民 の増加を背景に、世界市民主義や各地の慣習法を取り入れ 万民法となった。これをキリスト教に基づく法治国家に適合 するよう修正したのが『ローマ法大全』で、中世西欧で 法学研究の中心的題材となっただけでなく、近代民法典 にも影響を及ぼしている。 問24 帝国の全自由民にローマ市民権を与えたことでローマの都市国家から 世界帝国への変貌を決定づける一方、市民権付与の代償に ローマの多神教崇拝を強制したので、異教徒迫害の法的根拠 となった。 問25 当初は法律などに用いる実用言語に過ぎなかったが、次第に詩・哲学 ・歴史叙述などに用いる文学性の高い言語となり、帝国衰退後 は学問の言語として定着し、各国語に派生した。現在は カトリック教会の公用語および学術語として残存している。 問26 たてまえ上はローマ人による未開地域の文明化、実際は被征服民の 文化的伝統の継承および発展である。 問27 前者は固有の言語や宗教を持つ独自の民族であり、ローマに服属・ 同化した。後者は部族に分かれて生活したので民族意識は 無く、ローマ帝国領外に居住しローマ人と交易した。 ※ただしゲルマン人も傭兵などとして帝政末期にはローマ人と同化していく。 問28 独自の信仰生活が伝統的多神教を信じる一般民衆から危険視され、 治安維持を図る政府は信徒を取り締まった。帝政期、皇帝 崇拝を拒否する信徒は厳しい迫害を受けた。 ※当初、政府は信徒への不当な迫害は禁止していた。 問29 都市への重税で上層市民が田園の所領に逃れ、貧民はそこに保護を 求めた。職人は職業選択や移動が禁じられ、諸産業は皇帝が 独占したので、経済活動は衰えた。山賊や強盗の横行、異民族 の侵入などで内陸の通商路の安全性が奪われると貨幣経済も 衰退した。 ※これについては諸説ある。 問30 同地からイタリアへの穀物供給が停止し、ローマ市では市民生活が 維持できなくなった。 問31 遊牧パルティア人と農耕イラン人の文化融合が進み、アラム文字で表記 されるペルシア語が公用語となった。 問32 ギリシア系ローマ商人が、ペルシア・アクスムの商人に変わった。 問33 半島の平野部は稲作、半島の山地や諸島部は焼畑農業を行った。 問34 計画的な都市建設を行い、青銅器や象形文字を使用した。インダス川 やペルシア湾を経由してメソポタミアと交易を行った。 問35 多数のバラモンが北インドからデカン高原に移住し、南北の文化融合 が進んだ。 問36 商業・交通の要衝に成立した小規模な都市国家で、北方の遊牧国家 や近隣の農耕地帯の大帝国が支配を争った。 問37 殷は有力氏族の連合体であり、直接統治したのは都周辺に過ぎず、 邑と邑の間に広がる原野には多数の反殷勢力が存在していた。 問38 殷は甲骨による占朴や最高神である「帝」の祭りなど宗教儀礼で邑を 統合する神権政治を行ったが、周は世俗的社会道徳に基づいて 世襲による統治制度である封建制度を整え、宗法を重視した。 ※甲骨は亀骨としてもよい。獣骨も可。「帝」は天帝としてもよい。 神権政治によって軍役と貢納を確保した。これを祭政一致と言う。 問39 牛耕や鉄製農具の普及、治水灌漑・開拓の進展により、氏族統制下 の共同体的農業から小農経営に転換した。大土地所有者も 出現し没落農は宗教結社の母体となった。農業生産が増加し、 余剰の売買で青銅貨幣が流通。人口増で漢字文化圏が拡大した。 領域国家は慣習法を成文法化し、郡県制で地方に非世襲官僚を 派遣した。富国策を背景に製塩・製鉄業が栄え、武器を自弁 した平民は歩兵常備軍化し、二輪戦車に代わる軍隊の主力と なった。下剋上・能力主義の風潮下、氏族原理に代わる新た な思想が模索され、儒家・法家など諸子百家が活躍した。 ※鉄製農具以前の道具は石器や木器。小農経営の基本は男耕女織の性別分業であった。 諸子百家の思想活動は秦漢帝国の統一の基礎となった。その前提に開発 に伴う中国文化圏の拡大があり、ここに中華意識に基づく華夷思想の萌芽 が生まれる。ただし、これらの変化が本格化するのは戦国時代に入ってから であり、春秋時代は未だ邑を拠点とした点と線の支配に止まっていた。 問40 富豪を咸陽に強制移住させ、民間から兵器を没収した。 問41 絶対的な権力を持つ皇帝が官僚制度を通じて全国を統治するという 皇帝政治の基本型と、強権支配が滅亡を招くという 教訓を残した。 問42 当初は皇帝の直接支配が及ばない地域の首長を名目的に臣下に 任命し、王号を授与して世襲的統治を認める体制をとったが、 武帝は匈奴・衛氏朝鮮・南越などを対外遠征で直接支配 しようとした。 ※匈奴は戦国期の混乱に乗じて南下した。南越は秦の滅亡に乗じて独立した。 問43 機動的な血縁集団を基礎に国家を形成したので、領域の変化 が激しく、その盛衰は指導者の統率力が強く影響した。 遊牧民・オアシス民・農耕民が混合し、実務能力を重んじる 実力主義をとった。 問44 扶南や林邑は南海物産を集積して中国に輸出する一方、漢字・儒教 など中国文明を輸入し、サンスクリット語・ヒンドゥー教など インド文明と土着文化も合わせて、独自の文化を形成した。 |